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Junk Stage >> ハドソン川からの手紙

WordPress ME 2.2 - Capriccioso じゅり(ニュージャージー在住)
北海道出身、アメリカ・ニュージャージー州にて会社員・大学院生のじゅりが、月1回JunkStageに贈る、アメリカ文化に関するエア・メール。 Home > 手紙 2008.08.15

アメリカで生きて行く

Dear ゆうさん

暑い日が続いていますがいかがお過ごしですか?

夏のハドソン川の向こうには、マンハッタンが蜃気楼のように浮かんで見えます。

夏のハドソン川

「いずれ日本に帰るの?」とよく聞かれます。今のところ、里帰りする予定はありますが、永久帰国は予定していません。むしろ、アメリカに永住するつもりで市民権も取ったわけだし、アメリカで残りの人生を楽しく過ごせたら、と今は思います。

ある病気の疑いをかけられ、障害を持つ可能性があると言われました。その時、面倒を看てくれる家族がいる日本よりも、障害者が積極的に社会参加しているアメリカに残りたいと思いました。結局は病気でも何でもなかったのですが、年を取るにつれ、日本は住みにくいように私には見えます。

物価は高い。治安はよくない。テロの脅威が襲うこのご時世。アメリカは安心して住むことができると言い切れる国ではない。いい条件は揃っていないけれど、私にとってアメリカはとても快適に過ごせる場所です。(アメリカと言っても、私はマンハッタンからほど近い、ニュージャージーのことを指しているのですが。)

月に数回マンハッタンに遊びに行きます。車で行ったり、バスで行ったり。ご存知の通り、マンハッタンは世界でも屈指の観光スポットです。さすが、度々訪れても、なかなか飽きません。

そして、物価が高い街ではあるけれど、お金を使わなくても遊ぶことのできるスポットや方法はいくつかあります。たとえば美術館。ほとんどの美術館には、入場料が無料になる日があります。20ドルも取られる入場料。無料の日を選ばない手はありません。

映画は週末の午前中が狙い目です。安いところで4ドル前後、高くても6ドルぐらいのマチネ料金で映画を観ることができます。 ま、私の場合は、ニュージャージーのおんぼろ映画館でもっと安いマチネ映画を観ていますが。

マンハッタン

ミュージーカルもマチネを狙います。タイムズスクエアにチケットを安売りする場所があり、そこに並びます。何も有名なミュージーカルではなく、オフブロードウエー やオフオフブロードウエーで、前衛の舞台を楽しむのもいいでしょう。

ブロードウエー界隈のレストランは、ミュージーカルの観客をターゲットにした、プレフィックスのディナーメニューがあり、お手頃価格でおいしい料理が食べられます。レストランでおいしい料理と言えば、レストランウイークと呼ばれる期間に行くと、高級レストランでも参加していれば、驚く値段で最高級の料理が楽しめます。私はもっぱら屋台で食事を済ませてしまうほう。だって、かしこまったレストランより、ずっとおいしいんですもの。デザートは、夏場だったら、屋台のアイスクリームなんてどうでしょう。スカイラインを眺めながら、コクのあるソフトクリームなんて、最高の 贅沢のように私には思います。

リンカーンセンターのアメリカンバレエカンパニーのファンだった時は、フォースリングという舞台から一番遠い格安の席を買って、何度も通いました。

地下鉄は一般市民ばかりではなく、観光客も多く利用しています。駅のブースで地下鉄マップを手に入れると、ビーチにも動物園にも行くことができるのがわかります。乗り放題カードを購入して、自由の女神も、エンパイアステートビルディングも、メトロポリタン美術館も、地下鉄やバスを活用して、体力を節約しています。

アメリカに来て14年経ち、いまだマンハッタンには飽きません。もし人生最後の日が来たなら、私はマンハッタンをゆっくりと歩きたい。 もし日本に帰ってしまったら、私はマンハッタンが、アメリカが恋しくなって、狂ってしまうと思う。(もちろん日本も大好きなんですけどね。一生住みたいと思える場所に出会えて、本当に幸せだと思います。

ゆうさんにはそんな場所がありますか? あるとしたら、それはどこですか?

私のハドソン川からの手紙はこれで最後です。またしばらくしたら、筆をとる(更新する?)かも知れません。その時まで、お互い元気でがんばりましょう。

それではまた

From じゅり (私の日記はこちらでも読むことができます→ヨイコノミカタ)

Posted at 12:00 | Category: 手紙 | No Comments

2008.07.15

アメリカに住む

Dear 桃生さま

お元気ですか。

 

ニュージャージーは夏まっさかり。ビーチにベーベキューにベースボール。ビールに花火にアイスクリーム。背広姿のサラリーマンもアイスクリームをなめなめ街を歩いています。ちょっとカワイイ?

 

0701

アメリカで移民同士が出会った時、一番多い質問は何だか、ご存知ですか?

 

それはビザのステイタス。「あなたのビザはなんですか?」というのが、お決まりのあいさつといえるでしょう。私もアメリカに来た最初の頃はよく聞かれました。

 

「ビザは何?」

「学生ビザよ」

「本当? 私も」

となって会話が弾んだりしたものです。

 

アメリカに 3 ヵ月以上滞在するとなると、なんらかのビザは必要になります。仕事や結婚が目的でないかぎり、学生ビザで入国する人が多いでしょう。 15 年前、私が学生ビザを申請した時は、アメリカにある学校側が発行する I-20 という書類が必要でした。入学の申請と銀行の残高証明で、あっさり発行されました。そして、 I-20 と一緒に、在日アメリカ大使館で学生ビザの申請をするのです。

 

これが私にとって、最初の難関でした。渡米予定の 2 ヶ月前、学生ビザの発行を拒否されました。独身、女性、フリーランス。どこにも所属していなかった私は、「アメリカで、勉強なんかしないで、さっさと結婚相手を見つけて、居据わるのだろう」くらいにしか、」思われなかったのだと思います。拒否理由に、「アメリカで英語を勉強しようとする根拠が見当たらない」「いずれ日本に帰国する根拠がない」「永住のおそれがある」。学生ビザを発行する人は、あくまでも学生であり、卒業したらとっとと本国へ帰ってもらわないといけないのです。

 

あ、そうだったのか、と思いました。だって、私は永住のおそれがあるというよりも、永住する気まんまんだったのですっ!(鼻息

 

二度目の申請はむずかしいという話を聞き、人の勧めで弁護士を雇うことにしました。移民弁護士の存在も知りませんでしたし、紹介してくれた人も、よく分からなかったらしく、業界で有名な国際弁護士を紹介してくれました。企業間の国際ビジネスを取り扱う弁護士で、それは立派なオフィスでした。考えると、即、断わられて当然のはずが、「移民はやったことがありませんが、やりましょう」と引き受けてくれました。後から聞いたのは、ご自身の留学経験と、アメリカに行くことしか眼中になかった私の気迫に負けたからだそうです。

 

弁護士の尽力で渡米した私ですが、ビザとの格闘は続きます。当時、永住権、もしくはグリーンカードは、だれもの憧れでした。私が渡米する数年前は、抽選プログラムで一人何枚も応募でき、出せば出すほど抽選の確率が高くなるものでした。アメリカで知り合った人の多くは抽選でグリーンカードを当てた人でした。

 

もちろん私も 1 年に 1 回の抽選に全てをかける思いでしたが、その頃には、1人1通と限られ、当選率はかなり低くなっていました。学生ビザは、当然のごとく学生でいないといけません。働くことも許されませんし、市立大学で留学生は、市民とは隔てられた特別に高い授業料を払うことになります。延長可能ですが、期限付きでもありました。最初から永住しようと思っていた私には不便なビザでした。

 

労働ビザをサポートするので、正社員にならないか、というありがたいお話をいただきました。労働ビザ、いわゆる H1(b) ビザがあれば、サポートしている会社に勤めている限り、有効です。申請するための費用や弁護士料は自腹ですが、こういうチャンスがあるだけでもラッキーと思わなくてはいけません。でも大枚が飛んでいくのは忍びないものでした。

 

労働ビザは、労働局の許可と移民局の許可の2本立てです。 実は、移民局から渡航の許可発行を拒否されてしまったのです。労働許可は下りても移民局の許可がなければ、働くことは許されても、渡航はできないという状態になります。

 

担当弁護士のアドバイスで、労働ビザの申請と、永住権の申請を同時にすることにしました(また大枚が‥ 涙)。永住権がいずれもらえるのであれば、労働許可さえあれば、移民局の許可いりません。永住権までの数年、アメリカで辛抱すればいい話です。

 

ところが、どうしても日本に一次帰国しなくてはならない用事ができ、移民局の許可を再申請するはめになりました。再申請はアメリカ国外から一度出て、アメリカ大使館で面接を受けるというプロセスがありました。一番近く手堅いところはということで、カナダのモントリオールを選びました。この面接の予約を取るのが一苦労でした。朝の6時から電話をかけ、オフィスの職員に朝一番でその電話に出てもらうのです。さもないと、全く電話がつながらないという状況になってしまいます。

 

面接日が決まり、冬のモントリオールへ旅立ちました。これまで移民局とは、郵便でのやり取りでしたので、面接を受けるのは初めてです。私の担当者は優しく、ていねいに書類を見て、おだやかに会話をしてくれる人。一方、となりの窓口はいじわるな質問を投げかける面接官がいました。人生の分かれ道を見た思いでした。

 

ビザは翌日発行。凍てつくモントリオールの寒空の下で長い列に立ちました。自分の順番が来て、投げるようにパスポートを渡された時、言いようのないみじめな思いをしました。東京に住んでいた中国人の友人から何度も聞かされた、日本の入国管理局での屈辱。それに比べればまだましです。アメリカの移民局は親切なほうかも知れません。

 

永住権はさらに苦労しました。会社からのサポートという建前ですから、働き続けていなければいけません。永住権の取得には 5 年を費やしました。楽しくのんびりと働きながら気長に待った5年ではありません。永住権をあきらめて、何度も帰国しようと思いましたし、手続きが煩雑で、 経済的にも体力もくたくたに消耗した時期でした。

 

ビザ 永住権の先には市民権が待っているのですが、ビザの苦労話はここまで。私がここまで苦労話をあげて言いたかったのは、アメリカで夢を叶えようとするならば、正規のビザを保持することは基本。その努力をするのは当然ではないだろうか、ということなのです。

 

学生ビザも労働ビザも、私が申請していた頃から比べれば、数倍むずかしくなっていると聞いています。それでも、アメリカで一旗揚げようとするならば、堂々と自分のステイタスを語ってほしいのです。たとえ、ただ楽しくニューヨーク生活を送りたい人も、ビザは持っていて欲しい。なぜなら、学生ビザを拒否しつづける理由の一つに、違法滞在者の多さがあげられているから。

 

実力があり、チャンスがあっても、ビザの証明が出来ないために、泣く泣く夢を諦めていく人を見てきました。くやしいし、もったいない。ビザをキープするのは、たいへんなことだけど、アメリカでやりたいことを達成するために必要なプロセスだと思います。

 

今、アメリカ市民ですが、説明が面倒なので、ビザは何かと聞かれたら、「永住権です」と答えています。「いいなあ」とうらやましがられ、私もかつて、うらやましがっていたことを思い出しました。あんなに苦しい思い出は時とともに色あせていくけれど、苦しかった頃に戻って、「大丈夫、あなたは絶対に大丈夫」と、どん底にいた自分に言ってあげたい。

 

長々と書きましたが、これからアメリカに来る人と、今ビザで苦労している人に送りたいメッセージなのでした。

 

桃生さんはアメリカの夏と聞いて、最初に何を想像しますか?

 

それではまた

 

From じゅり 

Posted at 12:00 | Category: 手紙 | 2 Comments

2008.06.15

アメリカで学ぶ(後編)

(前回の続きです)

 

 

1、2クラスとはいえ、フルタイムの仕事をしながら、勉強するのはたいへんでした。締め切りのあった日は、夜のクラスを終えてからオフィスに戻りましたし、残業した日に、朝まで論文を書き、試験勉強したこともありました。普通の大学教育課程ですから、日本と同じく物理や、地理や、経済や、心理学や、英語もあります。チュータリングサービスというのがあり、成績の良い学生が教えてくれるサービスはよく利用しました。

 

苦手な科目もたくさんありましたが、同じように楽しいクラスもありました。 体育はボーリングを選び、若い男子学生とチームを組んで総合優勝し、トロフィーをもらったこともありました。

 

理解できなくて、何度もクラスを落とそうとする一方で、 授業態度が良いからと期末試験を免除されたこともあったし、出張で試験が受けられなかった時は、試験日をずらして、廊下で試験を受けたこともありました。永住権の申請で、経済的に困難になり、クラスに通えないセメスターもありました。大学に通わなければ見えないアメリカと世界と地球と宇宙を学び、年代を越えた人と出会いました。でもセメスターが変わればクラスメートも変わる。なかなか同級生と呼べる友達はできませんでしたね。

 

卒業式

▲感動の卒業式(2008年5月撮影) 

 

仕事や住まいの関係で大学を2度ほど転校し、四年制大学から短大に転校。住まいをニュージャージーに移しても、仕事を終えて車でクラスにかけつけました。入学してから10年が経とうとしていた時に、短大から卒業試験の知らせが届きました。あまりの長さに、短大卒業という区切りが来ることなど、期待もしていませんでした。

 

簡単な卒業試験をぎりぎりでパスし、マジソンスクエアガーデンで開かれた卒業式に出席しました。卒業式はあるけれど、入学式はないのがアメリカです。卒業式に出ても、知らない顔ばかりですし、実感はわきません。短大の学位ですから、達成感もそれほどありません。しかし、学長のあいさつで、「ここにいるみなさんの多くが、何年もかけて卒業という偉業を果たしたことを私は知っています」と言うスピーチを聞き、熱いものがこみあげてきました。そうだ、苦しかったのは私だけではない。ここにいるみんなが戦ってきたんだと思いました。

 

この卒業式の直後から、何事もなかったように、私は四年制大学に通い始めました。今はインターネットで申請し、書類も大学から大学に転送され、必要なクラスもテキストブックも成績もオンラインでチェックできる時代です。何時間もかかった宿題も早くすませられるようになりました。もちろん相変わらず、英語では、特にライティングに苦労しているけれど、だいぶ要領がよくなったような気がします。人前で話すことがこわくなくなったのも、読み書きが早くなったのも、クラスのおかげです。そして、自分が将来やりたいという方向性も、見つけました。

 

四年制大学の卒業の二文字がはっきり見えたのは昨年の始め。取るべきクラスが残り5つを切った時でした。最後の学期が終わっても、ファンファーレも鳴るほどの感動はなかったけど、ずっと私は、そして今も、卒業の余韻を気持ちよ~く味わっています。卒業式はニュージャージーネッツ(バスケットボール)のお膝元として有名なアリーナで盛大に行われ、場内に花火が打ち上げられました。ガウンとキャップを着るのはこれで二度目。正直なところ、和風の顔立ちには全く似合わない、アメリカのガウン。

 

今、大学院で勉強しています。大学とは比べ物にならないほど、専門的な勉強をしています。昇進が目的で、社会人になって大学院に通い始める人はめずらしくありません。60歳を超えたシニアは学費が免除なんです。私の同僚の何人かも夜学に通っています。専攻が仕事に関することであれば、授業料を出してくれる会社もあります。学生証があると、いろんなところで割引も受けられるし、税金の控除があります。でもなにより、私にとって大学に通うということは、学位を取ることだけではなく、いつも自分を磨いていくための手段。再び卒業する日が来ても、また勉強を続けていくんだろうな。

 

晶子さんは栄養士の勉強をされているそうですね。仕事をしながらの勉強は如何ですか? 周りの理解はありますか? 

 

 

それではまた 

かしこ  

 

pandora hängen2px 'MS Mincho'">From じゅり 

Posted at 12:00 | Category: 手紙 | No Comments

2008.05.19

アメリカで学ぶ(前編)

Dear 晶子さん お元気ですか?

やっとニュージャージーに春が訪れ、みんな夏を 待ち遠しくしています。今年は花粉症の当たり年。私も参っています。。。(とほほ      

Hudson river 05-2008

こちらでのアップデートが遅れてごめんなさい。やっと春の学期が終わり、 ほっとしたと思ったら、仕事の山が襲って来て、手つかずにいました。あ、言ってませんでしたね。私は昼間は普通の会社員で、夕方から大学院で勉強しているんです。そして今日は、私の学生生活のお話。ちょっと長いんで、2回に分けました。      

アメリカに来たばかりの頃、私は期限付きの学生ビザを持っていました。ビザの話は、また別の機会にするとして、学生ビザは当然ながら、学生でいなければいけません。学校はビザを持った学生が規定のクラス数の出席に達していないと、それを関係機関に報告する義務があります。

英語が全く話せなかった私は、まずは英語学校でしっかり勉強するつもりでいたので、出席するのは問題ありませんでした。最初は能力に合わせてクラスはレベル分けされます。一日も早く英語が話せるようになりたかったので、必死で勉強したものです。

ニューヨークという街は不思議なもので、英語が話せなくても、生活に不便はありません。ニューヨーカーの耳の良さ、勘の良さ、手振り、身振り。医療から運転免許の取得まで日本語でもサービスは受けられます。

その頃の私は永住しようと思っていたので、英語はきちんと身につけておきたいと思っていました。でも、一般レベルの英語力がないと、時間はかかるし、勘違いも多いし、結構はずかしい体験をしたものです。

6ヵ月ほど経つと、英語学校では物足りなくなってきました。かといって、英語がぺらぺらになるのかと言ったら、とーんでもない。私が10代の若者だったら、脳のスポンジもぐいぐい吸い上げてくれたのでしょうけど、高校を卒業してだいぶ時間が経っていたし、脳はまるで岩盤のよう。相変わらず、英語ができないおかげで、恥かきっぱなしの毎日です。バカにされて、「くやしい」と夜も眠れないことがありました。

大学に行こう! と思いました。日本のような入試システムがないアメリカは、日本よりも入学しやすいと聞いていました。英語を母国語としない留学生は、トーフルと呼ばれる試験を受け、大学の申請書と一緒に提出することになっています。英語力のない私は、トーフルの点数をさほど考慮しないコミュニティー・カッレジからスタートすればいいと思ったのです。

このトーフルが厄介でした。なかなか点数があがらず、いけると思ったコミカレの基準スコアに到達しません。試験は月数回ありましたので、毎月受けていました。結局、アメリカに来てから1年半もかかってしまいました。とはいえ、継続は力といいますが、こんな私でも続ければ何とかなると、自信ができたものです。結局、ニューヨークにある公立の四年制大学の一つに行く事にしました。

トーフル以外にも入学には難関が待っていました。学生ビザは学校側が発行するI-20という書類があって有効となります。その書類を発行してもらうために大学側に別の申請所を提出しなくてはいけません。大学によって揃える書類が微妙に異なります。特に苦労したのが銀行の残高証明。働くことを許されない学生ビザ保持者は、働かなくても通学できる財力を証明する必要があるのです。


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アメリカで生きて行く

Dear ゆうさん

暑い日が続いていますがいかがお過ごしですか?

夏のハドソン川の向こうには、マンハッタンが蜃気楼のように浮かんで見えます。

夏のハドソン川

「いずれ日本に帰るの?」とよく聞かれます。今のところ、里帰りする予定はありますが、永久帰国は予定していません。むしろ、アメリカに永住するつもりで市民権も取ったわけだし、アメリカで残りの人生を楽しく過ごせたら、と今は思います。

ある病気の疑いをかけられ、障害を持つ可能性があると言われました。その時、面倒を看てくれる家族がいる日本よりも、障害者が積極的に社会参加しているアメリカに残りたいと思いました。結局は病気でも何でもなかったのですが、年を取るにつれ、日本は住みにくいように私には見えます。

物価は高い。治安はよくない。テロの脅威が襲うこのご時世。アメリカは安心して住むことができると言い切れる国ではない。いい条件は揃っていないけれど、私にとってアメリカはとても快適に過ごせる場所です。(アメリカと言っても、私はマンハッタンからほど近い、ニュージャージーのことを指しているのですが。)

月に数回マンハッタンに遊びに行きます。車で行ったり、バスで行ったり。ご存知の通り、マンハッタンは世界でも屈指の観光スポットです。さすが、度々訪れても、なかなか飽きません。

そして、物価が高い街ではあるけれど、お金を使わなくても遊ぶことのできるスポットや方法はいくつかあります。たとえば美術館。ほとんどの美術館には、入場料が無料になる日があります。20ドルも取られる入場料。無料の日を選ばない手はありません。

映画は週末の午前中が狙い目です。安いところで4ドル前後、高くても6ドルぐらいのマチネ料金で映画を観ることができます。 ま、私の場合は、ニュージャージーのおんぼろ映画館でもっと安いマチネ映画を観ていますが。

マンハッタン

ミュージーカルもマチネを狙います。タイムズスクエアにチケットを安売りする場所があり、そこに並びます。何も有名なミュージーカルではなく、オフブロードウエー やオフオフブロードウエーで、前衛の舞台を楽しむのもいいでしょう。

ブロードウエー界隈のレストランは、ミュージーカルの観客をターゲットにした、プレフィックスのディナーメニューがあり、お手頃価格でおいしい料理が食べられます。レストランでおいしい料理と言えば、レストランウイークと呼ばれる期間に行くと、高級レストランでも参加していれば、驚く値段で最高級の料理が楽しめます。私はもっぱら屋台で食事を済ませてしまうほう。だって、かしこまったレストランより、ずっとおいしいんですもの。デザートは、夏場だったら、屋台のアイスクリームなんてどうでしょう。スカイラインを眺めながら、コクのあるソフトクリームなんて、最高の 贅沢のように私には思います。

リンカーンセンターのアメリカンバレエカンパニーのファンだった時は、フォースリングという舞台から一番遠い格安の席を買って、何度も通いました。

地下鉄は一般市民ばかりではなく、観光客も多く利用しています。駅のブースで地下鉄マップを手に入れると、ビーチにも動物園にも行くことができるのがわかります。乗り放題カードを購入して、自由の女神も、エンパイアステートビルディングも、メトロポリタン美術館も、地下鉄やバスを活用して、体力を節約しています。

アメリカに来て14年経ち、いまだマンハッタンには飽きません。もし人生最後の日が来たなら、私はマンハッタンをゆっくりと歩きたい。 もし日本に帰ってしまったら、私はマンハッタンが、アメリカが恋しくなって、狂ってしまうと思う。(もちろん日本も大好きなんですけどね。一生住みたいと思える場所に出会えて、本当に幸せだと思います。

ゆうさんにはそんな場所がありますか? あるとしたら、それはどこですか?

私のハドソン川からの手紙はこれで最後です。またしばらくしたら、筆をとる(更新する?)かも知れません。その時まで、お互い元気でがんばりましょう。

それではまた

From じゅり (私の日記はこちらでも読むことができます→ヨイコノミカタ)

Posted at 12:00 | Category: 手紙 | No Comments

2008.07.15

アメリカに住む

Dear 桃生さま

お元気ですか。

 

ニュージャージーは夏まっさかり。ビーチにベーベキューにベースボール。ビールに花火にアイスクリーム。背広姿のサラリーマンもアイスクリームをなめなめ街を歩いています。ちょっとカワイイ?

 

0701

アメリカで移民同士が出会った時、一番多い質問は何だか、ご存知ですか?

 

それはビザのステイタス。「あなたのビザはなんですか?」というのが、お決まりのあいさつといえるでしょう。私もアメリカに来た最初の頃はよく聞かれました。

 

「ビザは何?」

「学生ビザよ」

「本当? 私も」

となって会話が弾んだりしたものです。

 

アメリカに 3 ヵ月以上滞在するとなると、なんらかのビザは必要になります。仕事や結婚が目的でないかぎり、学生ビザで入国する人が多いでしょう。 15 年前、私が学生ビザを申請した時は、アメリカにある学校側が発行する I-20 という書類が必要でした。入学の申請と銀行の残高証明で、あっさり発行されました。そして、 I-20 と一緒に、在日アメリカ大使館で学生ビザの申請をするのです。

 

これが私にとって、最初の難関でした。渡米予定の 2 ヶ月前、学生ビザの発行を拒否されました。独身、女性、フリーランス。どこにも所属していなかった私は、「アメリカで、勉強なんかしないで、さっさと結婚相手を見つけて、居据わるのだろう」くらいにしか、」思われなかったのだと思います。拒否理由に、「アメリカで英語を勉強しようとする根拠が見当たらない」「いずれ日本に帰国する根拠がない」「永住のおそれがある」。学生ビザを発行する人は、あくまでも学生であり、卒業したらとっとと本国へ帰ってもらわないといけないのです。

 

あ、そうだったのか、と思いました。だって、私は永住のおそれがあるというよりも、永住する気まんまんだったのですっ!(鼻息

 

二度目の申請はむずかしいという話を聞き、人の勧めで弁護士を雇うことにしました。移民弁護士の存在も知りませんでしたし、紹介してくれた人も、よく分からなかったらしく、業界で有名な国際弁護士を紹介してくれました。企業間の国際ビジネスを取り扱う弁護士で、それは立派なオフィスでした。考えると、即、断わられて当然のはずが、「移民はやったことがありませんが、やりましょう」と引き受けてくれました。後から聞いたのは、ご自身の留学経験と、アメリカに行くことしか眼中になかった私の気迫に負けたからだそうです。

 

弁護士の尽力で渡米した私ですが、ビザとの格闘は続きます。当時、永住権、もしくはグリーンカードは、だれもの憧れでした。私が渡米する数年前は、抽選プログラムで一人何枚も応募でき、出せば出すほど抽選の確率が高くなるものでした。アメリカで知り合った人の多くは抽選でグリーンカードを当てた人でした。

 

もちろん私も 1 年に 1 回の抽選に全てをかける思いでしたが、その頃には、1人1通と限られ、当選率はかなり低くなっていました。学生ビザは、当然のごとく学生でいないといけません。働くことも許されませんし、市立大学で留学生は、市民とは隔てられた特別に高い授業料を払うことになります。延長可能ですが、期限付きでもありました。最初から永住しようと思っていた私には不便なビザでした。

 

労働ビザをサポートするので、正社員にならないか、というありがたいお話をいただきました。労働ビザ、いわゆる H1(b) ビザがあれば、サポートしている会社に勤めている限り、有効です。申請するための費用や弁護士料は自腹ですが、こういうチャンスがあるだけでもラッキーと思わなくてはいけません。でも大枚が飛んでいくのは忍びないものでした。

 

労働ビザは、労働局の許可と移民局の許可の2本立てです。 実は、移民局から渡航の許可発行を拒否されてしまったのです。労働許可は下りても移民局の許可がなければ、働くことは許されても、渡航はできないという状態になります。

 

担当弁護士のアドバイスで、労働ビザの申請と、永住権の申請を同時にすることにしました(また大枚が‥ 涙)。永住権がいずれもらえるのであれば、労働許可さえあれば、移民局の許可いりません。永住権までの数年、アメリカで辛抱すればいい話です。

 

ところが、どうしても日本に一次帰国しなくてはならない用事ができ、移民局の許可を再申請するはめになりました。再申請はアメリカ国外から一度出て、アメリカ大使館で面接を受けるというプロセスがありました。一番近く手堅いところはということで、カナダのモントリオールを選びました。この面接の予約を取るのが一苦労でした。朝の6時から電話をかけ、オフィスの職員に朝一番でその電話に出てもらうのです。さもないと、全く電話がつながらないという状況になってしまいます。

 

面接日が決まり、冬のモントリオールへ旅立ちました。これまで移民局とは、郵便でのやり取りでしたので、面接を受けるのは初めてです。私の担当者は優しく、ていねいに書類を見て、おだやかに会話をしてくれる人。一方、となりの窓口はいじわるな質問を投げかける面接官がいました。人生の分かれ道を見た思いでした。

 

ビザは翌日発行。凍てつくモントリオールの寒空の下で長い列に立ちました。自分の順番が来て、投げるようにパスポートを渡された時、言いようのないみじめな思いをしました。東京に住んでいた中国人の友人から何度も聞かされた、日本の入国管理局での屈辱。それに比べればまだましです。アメリカの移民局は親切なほうかも知れません。

 

永住権はさらに苦労しました。会社からのサポートという建前ですから、働き続けていなければいけません。永住権の取得には 5 年を費やしました。楽しくのんびりと働きながら気長に待った5年ではありません。永住権をあきらめて、何度も帰国しようと思いましたし、手続きが煩雑で、 経済的にも体力もくたくたに消耗した時期でした。

 

ビザ 永住権の先には市民権が待っているのですが、ビザの苦労話はここまで。私がここまで苦労話をあげて言いたかったのは、アメリカで夢を叶えようとするならば、正規のビザを保持することは基本。その努力をするのは当然ではないだろうか、ということなのです。

 

学生ビザも労働ビザも、私が申請していた頃から比べれば、数倍むずかしくなっていると聞いています。それでも、アメリカで一旗揚げようとするならば、堂々と自分のステイタスを語ってほしいのです。たとえ、ただ楽しくニューヨーク生活を送りたい人も、ビザは持っていて欲しい。なぜなら、学生ビザを拒否しつづける理由の一つに、違法滞在者の多さがあげられているから。

 

実力があり、チャンスがあっても、ビザの証明が出来ないために、泣く泣く夢を諦めていく人を見てきました。くやしいし、もったいない。ビザをキープするのは、たいへんなことだけど、アメリカでやりたいことを達成するために必要なプロセスだと思います。

 

今、アメリカ市民ですが、説明が面倒なので、ビザは何かと聞かれたら、「永住権です」と答えています。「いいなあ」とうらやましがられ、私もかつて、うらやましがっていたことを思い出しました。あんなに苦しい思い出は時とともに色あせていくけれど、苦しかった頃に戻って、「大丈夫、あなたは絶対に大丈夫」と、どん底にいた自分に言ってあげたい。

 

長々と書きましたが、これからアメリカに来る人と、今ビザで苦労している人に送りたいメッセージなのでした。

 

桃生さんはアメリカの夏と聞いて、最初に何を想像しますか?

 

それではまた

 

From じゅり 

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2008.06.15

アメリカで学ぶ(後編)

(前回の続きです)

 

 

1、2クラスとはいえ、フルタイムの仕事をしながら、勉強するのはたいへんでした。締め切りのあった日は、夜のクラスを終えてからオフィスに戻りましたし、残業した日に、朝まで論文を書き、試験勉強したこともありました。普通の大学教育課程ですから、日本と同じく物理や、地理や、経済や、心理学や、英語もあります。チュータリングサービスというのがあり、成績の良い学生が教えてくれるサービスはよく利用しました。

 

苦手な科目もたくさんありましたが、同じように楽しいクラスもありました。 体育はボーリングを選び、若い男子学生とチームを組んで総合優勝し、トロフィーをもらったこともありました。

 

理解できなくて、何度もクラスを落とそうとする一方で、 授業態度が良いからと期末試験を免除されたこともあったし、出張で試験が受けられなかった時は、試験日をずらして、廊下で試験を受けたこともありました。永住権の申請で、経済的に困難になり、クラスに通えないセメスターもありました。大学に通わなければ見えないアメリカと世界と地球と宇宙を学び、年代を越えた人と出会いました。でもセメスターが変わればクラスメートも変わる。なかなか同級生と呼べる友達はできませんでしたね。

 

卒業式

▲感動の卒業式(2008年5月撮影) 

 

仕事や住まいの関係で大学を2度ほど転校し、四年制大学から短大に転校。住まいをニュージャージーに移しても、仕事を終えて車でクラスにかけつけました。入学してから10年が経とうとしていた時に、短大から卒業試験の知らせが届きました。あまりの長さに、短大卒業という区切りが来ることなど、期待もしていませんでした。

 

簡単な卒業試験をぎりぎりでパスし、マジソンスクエアガーデンで開かれた卒業式に出席しました。卒業式はあるけれど、入学式はないのがアメリカです。卒業式に出ても、知らない顔ばかりですし、実感はわきません。短大の学位ですから、達成感もそれほどありません。しかし、学長のあいさつで、「ここにいるみなさんの多くが、何年もかけて卒業という偉業を果たしたことを私は知っています」と言うスピーチを聞き、熱いものがこみあげてきました。そうだ、苦しかったのは私だけではない。ここにいるみんなが戦ってきたんだと思いました。

 

この卒業式の直後から、何事もなかったように、私は四年制大学に通い始めました。今はインターネットで申請し、書類も大学から大学に転送され、必要なクラスもテキストブックも成績もオンラインでチェックできる時代です。何時間もかかった宿題も早くすませられるようになりました。もちろん相変わらず、英語では、特にライティングに苦労しているけれど、だいぶ要領がよくなったような気がします。人前で話すことがこわくなくなったのも、読み書きが早くなったのも、クラスのおかげです。そして、自分が将来やりたいという方向性も、見つけました。

 

四年制大学の卒業の二文字がはっきり見えたのは昨年の始め。取るべきクラスが残り5つを切った時でした。最後の学期が終わっても、ファンファーレも鳴るほどの感動はなかったけど、ずっと私は、そして今も、卒業の余韻を気持ちよ~く味わっています。卒業式はニュージャージーネッツ(バスケットボール)のお膝元として有名なアリーナで盛大に行われ、場内に花火が打ち上げられました。ガウンとキャップを着るのはこれで二度目。正直なところ、和風の顔立ちには全く似合わない、アメリカのガウン。

 

今、大学院で勉強しています。大学とは比べ物にならないほど、専門的な勉強をしています。昇進が目的で、社会人になって大学院に通い始める人はめずらしくありません。60歳を超えたシニアは学費が免除なんです。私の同僚の何人かも夜学に通っています。専攻が仕事に関することであれば、授業料を出してくれる会社もあります。学生証があると、いろんなところで割引も受けられるし、税金の控除があります。でもなにより、私にとって大学に通うということは、学位を取ることだけではなく、いつも自分を磨いていくための手段。再び卒業する日が来ても、また勉強を続けていくんだろうな。

 

晶子さんは栄養士の勉強をされているそうですね。仕事をしながらの勉強は如何ですか? 周りの理解はありますか? 

 

 

それではまた 

かしこ  

 

From じゅり 

Posted at 12:00 | Category: 手紙 | No Comments

2008.05.19

アメリカで学ぶ(前編)

Dear 晶子さん お元気ですか?

やっとニュージャージーに春が訪れ、みんな夏を 待ち遠しくしています。今年は花粉症の当たり年。私も参っています。。。(とほほ      

Hudson river 05-2008

こちらでのアップデートが遅れてごめんなさい。やっと春の学期が終わり、 ほっとしたと思ったら、仕事の山が襲って来て、手つかずにいました。あ、言ってませんでしたね。私は昼間は普通の会社員で、夕方から大学院で勉強しているんです。そして今日は、私の学生生活のお話。ちょっと長いんで、2回に分けました。      

アメリカに来たばかりの頃、私は期限付きの学生ビザを持っていました。ビザの話は、また別の機会にするとして、学生ビザは当然ながら、学生でいなければいけません。学校はビザを持った学生が規定のクラス数の出席に達していないと、それを関係機関に報告する義務があります。

英語が全く話せなかった私は、まずは英語学校でしっかり勉強するつもりでいたので、出席するのは問題ありませんでした。最初は能力に合わせてクラスはレベル分けされます。一日も早く英語が話せるようになりたかったので、必死で勉強したものです。

ニューヨークという街は不思議なもので、英語が話せなくても、生活に不便はありません。ニューヨーカーの耳の良さ、勘の良さ、手振り、身振り。医療から運転免許の取得まで日本語でもサービスは受けられます。

その頃の私は永住しようと思っていたので、英語はきちんと身につけておきたいと思っていました。でも、一般レベルの英語力がないと、時間はかかるし、勘違いも多いし、結構はずかしい体験をしたものです。

6ヵ月ほど経つと、英語学校では物足りなくなってきました。かといって、英語がぺらぺらになるのかと言ったら、とーんでもない。私が10代の若者だったら、脳のスポンジもぐいぐい吸い上げてくれたのでしょうけど、高校を卒業してだいぶ時間が経っていたし、脳はまるで岩盤のよう。相変わらず、英語ができないおかげで、恥かきっぱなしの毎日です。バカにされて、「くやしい」と夜も眠れないことがありました。

大学に行こう! と思いました。日本のような入試システムがないアメリカは、日本よりも入学しやすいと聞いていました。英語を母国語としない留学生は、トーフルと呼ばれる試験を受け、大学の申請書と一緒に提出することになっています。英語力のない私は、トーフルの点数をさほど考慮しないコミュニティー・カッレジからスタートすればいいと思ったのです。

このトーフルが厄介でした。なかなか点数があがらず、いけると思ったコミカレの基準スコアに到達しません。試験は月数回ありましたので、毎月受けていました。結局、アメリカに来てから1年半もかかってしまいました。とはいえ、継続は力といいますが、こんな私でも続ければ何とかなると、自信ができたものです。結局、ニューヨークにある公立の四年制大学の一つに行く事にしました。

トーフル以外にも入学には難関が待っていました。学生ビザは学校側が発行するI-20という書類があって有効となります。その書類を発行してもらうために大学側に別の申請所を提出しなくてはいけません。大学によって揃える書類が微妙に異なります。特に苦労したのが銀行の残高証明。働くことを許されない学生ビザ保持者は、働かなくても通学できる財力を証明する必要があるのです。